私はレイシストなのか?

 

こんにちは!

 

 

最近、知り合いと差別について話しました。

 

昨今のアメリカの”Black Lives Matter”運動から始まり、最初はゆるくお互いの意見を言っていたのですが、話題が「差別とは?」という方向に流れていくとそれはもはや話すというより討論に近くなっていました(笑)

 

 

 

差別はそれ一括りにするには個々によってあまりに概念が広く、また感じ方・考え方も異なります。

 

 

 

なぜならそれは、時代背景、歴史、環境(国)、価値観、経験、人種、教育による影響で、同じフレーズでもそのどれか1つが違うだけで、”それは差別だ!”と捉えたり捉えなかったりするもので、どの要素が組み合わさるかで大きく変化するからです。

 

 

 

 

 

なのでこの記事は私の主観になると思いますが、とりあえず知人と話した(討論した)内容も踏まえて考えなど書いていけたらと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本国内の差別意識については、相対的にみるとそこまで表面化していないように感じます。

 

もちろんこれは個人によって感じ方は異なりますし、私はおそらく全てにおいてマジョリティな故、差別を経験したことがないから言えることは十分承知しています。

 

 

 

しかし男尊女卑が激しいと言われていることも事実です。

特に地方ではまだまだ女性は一生家にいることが当たり前と考える層もいると聞きますし、場所に限らずまだまだ男性が優位に立っているという風潮はあります。

 

 

それを理由に都合のいいところだけ男性をよくしたり、立場が弱くなれば「それは女性差別だ!」と叫ぶのはいかがなものかと思うこともありますが、こればかりは実際海外に行かないとなんともなところもあると思います。

単純に女性の社会進出率などの数字だけ見ても計り知れないでしょう。

 

 

 

 

 

 

それより私がより差別に近いことを日本国内で感じることは、外国人に対してです。

 

”外国人”という言葉自体も非常に排他的な印象を受けますが、実際それが出ていると思っています。

 

 

見た目が明らかに日本人でない相手に対して、例えその方が帰化していようと言葉の節々に”こちらとそちら”と区別している印象です。

 

 

加えて、日本人が持つ外国人のイメージ=金髪、高い鼻と身長、色白

のいわゆるアングロサクソンが定着しすぎており、ヨーロッパだろうがアメリカだろうがとにかくその要素があれば英語で話しかけます。

 

 

 

しかし相手からすれば母国語が英語でもないのに英語で話かけられるということはいかがなものなのか。

もちろん世界共通語としての英語ではありますが、見た目がアジア人と認識されれば私ちは世界どこへ行っても中国語で話かけられることと同じです。

 

 

 

 

 

他にも外国人を褒めるつもりで、肌が白くて綺麗、目が大きくて羨ましいなど言っているシーンはたくさん見てきましたが、それはシンプルに失礼なのではないかと(笑)

 

 

私が北欧に行き、背が小さくて羨ましいとか言われたら、「馬鹿にされているのかな?」と感じます。

そのレベルのことを結構やっちゃっているなあと。

 

 

差別とまでは行きませんが、日本人はその歴史的背景と地形から多くの人が内・外の区別をしており、固定概念も強い印象です。

 

 

 

 

 

 

 

その話していた知人は海外在住経験があり、見た目もアングロサクソン寄りなのですが

過去日本に一時帰国した際、海外の友人1人を連れて入店した先で、「海外の方は値段が高くなります」と言われたことがあるそうです。

 

 

それに対し、区別か差別かで意見が分かれました。

 

 

 

 

海外の人はリピート率が悪く、詳しくは書けませんがそのお店の経営スタイル的にも海外の方は多少リスキーであったことは事実であるため、私はそれは区別なのではないかと言いました。

 

本人はそれは差別だと言いました。

 

 

 

例として、もし海外で同じように海外の人間お断りの店に当たったらそうするか?と聞かれ、それに対し私はこちらが納得できる正当な理由があるのならばそれは差別にならないと答えました。

 

海外の人でごった返し、普段からよくしてもらっている地元の人がゆっくりできなくなってしまわないように、とか。

 

 

ただこれは、地元在住で見た目が外国人の場合適用されたらそれは差別になると考えます。

加えて”〇〇から来た人間お断り”など特定の人間だけ排除するやり方も差別になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

差別に対する感度が高いほど、差別・区別、また先入観の違いは無くなってきます。

 

 

 

おそらく現在のアメリカで暴走を起こしている人たちは

ヒップホップは好きか?と聞かれるだけでそれは黒人に対する差別だ!と憤慨するかもしれません。

 

 

ただ冷静に考えて、それは先入観であり差別でもなんでもありません。

 

私たちの耳にはあまり届いていないかもしれませんが、アジア人女性・男性に対する先入観・偏見も、黒人のそれと同じくらい世界には蔓延っています。

日本人に対しても同じです。

 

 

 

 

それに対し、やっぱり君は日本人だから寿司が好きなのか、と聞かれたところで、やっぱりそのイメージだよなあと思う程度で差別だなんだと怒る気にはなりません。

 

 

 

だからと言って私自身が特定の物事に対し先入観や差別意識を持って「これだからこう!」と主張する気も全くありません。

 

 

 

 

私はその辺の意識について人より鈍いと思っています。

 

何人を見ても最初は日本語で話しかけますし、LGBTの知り合いもいますが次会った時にはそのことを忘れているくらいには気にしません。

 

 

究極私はマイノリティだろうがマジョリティだろうがすべてのことをいい意味でどうでもいいと思っており、人間なんだから違って当たり前と捉えています。

 

 

 

なので正直、アメリカの暴動は無駄なところにエネルギーを注いでいるなあとしか感想はないですし、もちろん同情なんてありません。

 

LGBTという言葉にも違和感を覚えます。

 

人間なんだから性の対象なんてそれぞれであり、たまたま世の中には異性愛者が多いだけのことくらいに思っているのでわざわざそんなワードを生み出して大多数の”普通”と区別するようなやり方は好きではないです。

 

 

 

もっと好きではないことは、その区別を利用し”優遇は普通、冷遇は差別”と捉えるマイノリティが存在していることです。

 

 

 

 

何度も登場してしまいますが、それをはっきりさせているのがBlack Lives Matter運動だと感じて止みません。

ついに白人お断りの地区を作ったと聞くので、彼らがしたいことは別にBlack Lives Matterでもなんでもなく、物理的な優劣差なのだと理解しました。

 

 

 

誰かが作った”黒人お断り”には激怒するのに、”黒人専用”には納得する。

それは優遇という名の差別であると気づかないのは悲しいことです。

 

 

 

 

 

 

その米国在住経験がある話相手曰く、以上のような私の考え方はアメリカではレイシストとなるそうです(笑)

 

 

 

先ほど記述した通り、私は差別も区別も偏見も持ちませんが(と思っている)

自分がもし差別されたと感じた時に相手に怒るかと聞かれたらそうでもないと思うので、その考え方は差別を受けたとされる人たちにも「いやそんなことで差別って言うの?」という見方になっているんだと思います。

 

 

 

 

個人的には、マイノリティもマジョリティも同じように扱うことが一番の”差別のない社会”なのではないかと考えます。

 

 

 

 

 

 

 

お読みいただきありがとうございました。

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